英語で百人一首 第十首「これやこの…」蝉丸法師
藤原定家卿が編纂した「小倉百人一首」。
その中から毎回一首、ピーター・マクミラン先生の「英訳」も交えて紹介・解説します。今回は和歌番号第10番「蝉丸法師」の一句。
もくじ(CONTENTS)
第十歌「蝉丸法師」
これやこの
行くも帰るも
別れては
知るも知らぬも
逢坂の関
小倉百人一首 第十番:蝉丸法師
ピーター・マクミラン先生の英訳
So this is the place!
Crowds, coming going
Meeting parting
those known, unknown
the Gate of Meeting Hill.
「WHACK A WAKA 百人イングリッシュ」(ピーター・マクミランより)
現代語訳
これがあの有名な、都から東国に下って行く人も、都へ帰って来る人も、ここで別れてはまたここで逢い、知っている人も知らない人も、ふたたび逢えるという、その名のとおり逢坂の関だよ。
歌人「蝉丸」(生没年不明)
平安時代初期の歌人ですが、生没年等、詳しいことは不明です。
今昔物語によると、宇多天皇の皇子敦実親王に仕える官位の低い役人。
琵琶の名人で、後に皇室の御物となった琵琶の名器・無名を愛用していたと伝えられています。
逢坂の関
逢坂関(おうさかのせき、あふさかのせき)は、山城国と近江国の国境にあった関所です。
相坂関や合坂関、会坂関などと書かれることもあります。
都と東国・北国を結ぶ東海道・東山道・北陸道の3つの主要道が集まる交通の要衝でした。
平安時代中期以降、「不破関」「鈴鹿関」と共に三大関所のひとつと呼ばれています。
【関のあった場所】
近世に道が掘り下げられたことから、実際の関の場所は定かではありません。
しかし、長安寺付近にあった関寺と、逢坂関を関連付ける記述が更級日記や石山寺縁起にあることから、同寺の付近にあったと見られています。
なお、これとは別に滋賀県大津市大谷町の国道1号線沿いの逢坂山検問所(京阪京津線大谷駅の東)脇には「逢坂山関址」という碑が建てられています。
関蝉丸神社
関蝉丸神社は、歌舞音曲・芸能の祖神として現在も崇められています。
盲目だった蝉丸が開眼する逸話にちなみ、眼病に霊験あらたかで、髢(かもじ:髪の毛)の祖神ともいわれています。
(年中祭事「蝉丸祭」)
神社の鎮座や創建など、神さまや神社に特に縁の深い日に行われる由緒ある特別なお祭り。
当社は5月24日がもともとの例祭日、5月24日は蝉丸霊が亡くなられた日とされています。
芸事をこよなく愛した蝉丸をしのび、また地域発展や祈願などの願いをこめて神輿と樽神輿2基が巡行します。
5月24日に一番近い日曜日、第4日曜日10時から17時に行われています。
(場所・交通アクセス)
(上社)滋賀県大津市逢坂一丁目20(京阪大谷駅徒歩5分)
(下社)滋賀県大津市逢坂一丁目15-6(京阪上栄町駅徒歩5分)
東海道・逢坂追分の名物「走り井餅」
京都市と大津市を隔てる逢坂山・追分は、かつて、京の都の玄関口として、東海道をゆく多くの旅人で賑わいました。
この付近には、清らかな水が勢いよくあふれ出す井戸があり、その様から「走井(はしりい)」と呼ばれ、旅人ののどを潤しました。
江戸時代になると周囲には茶店が建ち並び、旅人のオアシスになりました。そこで売り出された「走り井」の甘露でついた餅菓子は、その名を冠して「走り井餅」と呼ばれました。
以来、「走り井餅」は旅人をいやし、逢坂の地で長く親しまれる銘菓となったのです。(株式会社走り井餅本家より引用)
感想・雑記
「出会いと別れ…」
自分の人生を振り返えると、出会いと別れを繰り返してきた…
しみじみそう思います。
しかし、ひととき別れていて互いに生きていれば、再会できます。
この前、大学時代の学友とオンラインで同窓会を開きました。
懐かしい出来事や想い出が蘇り、その瞬間は学生時代に戻りました。
久しく会っていない人と逢いたくなった時は、自分から連絡すればよい。
そうつくづく感じています。
【参考・引用サイト】
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